NewInterView橋本慎司「手を、つなげ」

「手を、つなげ」

「手を、つなげ」(第一回)橋本慎司

橋本さんのお話は、特別版にて3回に分けてお送りします。橋本さんは農業に取り組むかたわら、有機農業の未来を見据えて、日本という枠を越えた活動をなさっておられます。長編になりますが、話の内容とユーモアある語り口に、ぐいぐいと引き込まれていくはず。示唆に富んださまざまなお話は、明日からのあなたの行動に、何か変化を与える…かも。


【農業を始めるまで】

菊地:まずは、橋本さんが農業を始めるまで、について教えて下さい。

 

橋本:私は広島で生れ育ったんですが、高校一年のときに、父の仕事の関係でブラジルへ行くことになって、家族全員でリオデジャネイロへ移ったんですね。半年ばかりアメリカのシカゴで語学を勉強した後、リオデジャネイロのインターナショナルスクールに通って、卒業後に帰国しました。

卒業後も日本に帰らずに、アメリカかどこか海外に留まる希望を持っていたんですけど、国際基督教大学に申請してみたら合格したので(在学中に海外に留学するなりしようか)と思って、日本に帰ってくることにしました。当時は、父のような海外で活躍するようなビジネスマンを志望していたんで、卒業後はどこか企業に就職して…というようなプランを描いていておったんですけどね。卒業後は「コープこうべ」に入社して、神戸に来ることになりました。その頃に市島のことを知ったわけです。その後、平成元年に市島に移住して農業を始め、現在に至る、というわけです。

 

菊地:コープこうべでは、どんなお仕事を?

 

橋本:農産課にいました。語学ができるので、バイヤーにでもなろうか、と考えていまして。1年目は店舗の野菜部門、2年目は店舗の果物部門、3年目は共同購入、と現場を見てきました。流通について学ぶことができた一連の経験は、今とても役に立っていますね。

 

菊地:会社を辞めて、橋本さんが農業を始めることになった理由・きっかけについて、教えて下さいますか?

 

橋本:農業に興味を持ったり、農業をやりたいと思いだしたのは、大学時代です。そのきっかけとなったのは ― ひとつは“食糧に関する問題”について、ふたつめに“日本の文化を守っていかないといけない”と。そんなことを考え始めたことからです。

 

【日本の文化を守りたい】

菊地:続けて下さい。

 

橋本:まず、日本文化を守りたいと思ったきっかけなんですが―。

父がブラジルに行くことになったとき、父は私に「ついて来るな」と言うんです。私は小学校5年から進学塾に通って、中学受験をして私立の学校に通いました。勉強はあまり好きやなくて、塾でも授業中に鼻をほじくって暇を持て余すような、そんな子供やったわけです。すると、塾の先生は私の親を呼び出し「あんたの子はやる気がない。やめさせる」と。私は親に激怒されて先生に謝らされ、(なんでこんなことさせられなあかんねん)と思っとったんですが…そもそもうちの親は学歴志向が強くて、人間っちゅうのはそれなりの学歴がないと幸せにはなれん、という考えなんですね。
私が中学3年のときです。“広島平和使節団”というのがあって、子供達が原爆の写真を姉妹都心にもっていく、というのがありまして、私はそのメンバーやったんです。私の父が被爆者ということもあって、その活動については意義のあることでした。で、その活動を通じてドイツを訪れたときに、感じたことなんですけど―。
それまでは(自分は進学塾に行き、私学に通って、偏差値を高めるために勉強する。…なんかおかしいなあ)と思いながらも、一応やってはいたけれど、でも、それほどまでに疑問は感じていなかった。ところがドイツに行ったら、子供達はサッカーを楽しんだりして、生活をエンジョイしているわけです。私のホームステイ先のお父さんなんかは、郊外に菜園を持っていて、平日なのに早く会社から帰ってきて畑を耕したりして、家族と共に生活を楽しみながら生きている、と。(同じ先進国なのに何でこんなに違うんかなあ)と。一方では生活をエンジョイしながら、豊かな暮らしをしているわけですよね。同じ先進国なのに、日本人はあくせく競争ばかりさせられていて(なんでこんな差があんねん)と、強く疑問を持ち始めたわけです。自分がやっていることって、意義があるんやろか?とね。
で、ドイツから帰ってきてから、ますます勉強せんようになってね。まったくやる気がない。何やってもバカらしく思うわけ(笑)そんな時、親からブラジルの話が持ち上がったので、親の反対押し切って「一緒に行くわ。俺、もうこんなとこにおりたない」と。日本を出たときは(もう二度と帰ってくるかこんな国!)と思ったり(笑)。それが15才の頃の話。もしドイツに行かんかったら、そんな疑問も持たんかったかもしれんけどね。

 

語る橋本慎司さん

菊地:ふむ、日本を飛び出した、と。

 

橋本:ブラジルに移ったら英語ができないと授業について行けないということで、それでまず、岩国の米軍基地に通うことになったんです。母が米軍基地に電話して、無理矢理ねじ込んで「うちの子そこに入れて英語を勉強させてやってくれ」と。向こうも根負けして「ほな来て下さい」。で、通いだしたんですが、そこで西洋社会とか、自由みたいなものに対する幻想が、崩れていったわけですね。
まず感じたのは…“なんでこの人らがここにおるんか”ということですね。日本が負けたからいるわけですけど、基地の中にいたら、米兵が起こした様々な事件とか色んなことを耳にするんです。米軍基地の中は完全にアメリカなんですわ。日本の国の中なのに、パスを持っていないと中に入れない。米兵が犯罪を起こしても ―広島の女の子をだましたり、結婚詐欺したり、交通事故起こして逃げたり― マスコミで報道されんのですわ。最近は変わってきたかもしれんけど、当時は警察もマスコミもだんまりでね。私も当然、それまではそんなこと知らんかったしね。で、基地で米兵の連中と話しとったら、明らかに日本人のことを馬鹿にしとるんですね。「わしら来てやっとるんや」と。「ここを支配しとんや」と。「『お前ら守ってもらってる』とか思ってるんか知らんが、わしらは“勝って”ここに来たんや」と。「お前らは敗戦国や」と。そういうのが伝わってくるんですわ。
その後、ブラジルやらアメリカに移った時も“白人のアジア人蔑視”いうのを感じるんですね。私はブラジルにいる時に、思い付きで空手を始めるんです。日本人をいつも馬鹿にしているデカい白人がおったんですけど、そういうやつが許せん、というのと、当時ブルース・リーの映画を見て、小さいアジア人が大きい白人をブッ倒すいうのがあって(これや!)と。そんなもん、デカいヤツに舐められてたまるか、と。他の日本人は黙ってるか知らんが、わしは違う、アジア人なめるヤツはこのわしが許さへんでぇ!いう感じなんですね。ほんで空手、始めたんですよ。

 

菊地:ははぁ…武闘派ですね(笑)

 

橋本:で、空手をやり始めると、今度は武道とか日本の文化に興味を持ち出すんですね。それに加えて、私は空手のトーナメントで入賞したりしていたんで(本場の日本でも、自分の空手が通用するんじゃないか)という気持ちになってきまして。で、そういう想いが強烈になってきたこともあって「卒業後は日本に帰ってみるかな」と。

 

菊地:なるほど。で、帰ってきてどうでした?

 

橋本:ところがいざ帰ってみると、今度は 自分が思うほどの日本ではないわけですね。自分で捻じ曲げて、勝手に描いていた日本への幻想、みたいなものがあるわけです。空手でいえば、ブラジルの日本人の空手の先生というのは、心・技・体が揃ったような、尊敬できる人でしたけど、日本国内の空手家の中には、酒飲んで暴れるわ、いい加減な人がおったりするわけですわ。武道家なんてものやなくて、あんたヤクザ?というような人がおったり。
それとか、ブラジルにいた時はいつも身近にサンバのリズムがあったり、みんながのんびりしてたり、ウキウキ楽しいような、まあええやん、みたいな、そんなムードなんですねえ。例えばバスが混雑していたら「もっとそっち寄れよ」とかいう言葉をきっかけに、会話が始まってすぐ友達になったり、人が集まれば一人がリズムを刻みだして、それが全員にうつって音楽が始まったり―。そんな環境で過ごしていたわけです。ところが日本に帰ってきて、東京とかで電車のったら、人が多いのに、えらい静かなんですね。狭いところで顔しかめて、ムリヤリ意固地に新聞読んだり本読んだり。(なんや、こいつら)と。もう、段々イヤになってきて(わし、やっぱり帰って来んかった方がよかったんちゃうか)と。

 

菊地:幻滅なさったんですね。海外に戻る、ということも考えました?

 

橋本:そうですねぇ。空手の世界なんかは絶対的なタテの社会やけど、私はそんなのあんまり関係ないでしょう。すると、先輩がやるわけです― 組み手とかしていると、それを機会に向かってくるけど、こっちはやり返すでしょ。じゃあ今度はイジメをするんですわ、陰湿なかんじで。もう腹が立ってね。やっぱり海外に戻ろうかな、と。海外におったら外人に腹立てて、日本におったら日本人に腹立ててね(笑)。
でも、そんな頃―。私の友人が高校の時に、自分の家から姫路の家まで歩いて野宿して、日本を旅した経験があってね、「その国のこととか、その国の人間を見ようと思ったら、歩いて旅するんがいちばんええんや」という話を思い出して(よっしゃ、じゃあ わしも広島の実家まで歩いて帰っちゃろう)と思ったんですね。それで、大学2年の夏に東京から広島まで1ヶ月間、歩いたんです。すると、途中で色んな人にめぐり会えて…こっちは汚い格好してるのに、家泊めてもらったり、食べ物もらったりね。日本人の人情が残っとるんですね、あちこちに。
それまで自分は(この国は冷たいんや。もう人情は失われとる)と思っていたのに、実はそうじゃないな、と。静岡かどこかで、バーべキューしている人たちに声をかけられ「おう兄ちゃんどこから来た?」「東京から広島まで歩いとんですわ」「おもろいなー食え!」「気に入った、今日はうちに泊まれ」言われてね。身なりの汚い・泥棒するかもかもしれんようなやつに言ってくれた。2週間ぶりの布団の気持ちのいいこといったらなくって、涙モノで感激してね、朝にはごはんと味噌汁つくってもらって。「俺の事務所においで」と言われたので立ち寄ったら「ちょっと小遣いやるわ」。後で見たら一万円。おにぎり持たせてくれて「気をつけていってらっしゃい」と。そんなようなことが他にも色々とあって、広島に着いたわけです。
その徒歩の旅が、自分の中でかなりのインパクトがあったんです。寅さんじゃないけれど、日本の中にも人情みたいなものが草の根のところで生きていて、失われたと思っていたものがまだ残っていて…これは残さなあかんのや、と。
それが“日本の文化を守りたい”と思った、理由のひとつです。

 

橋本さんの柔道着

【農業への志】

菊地:その後の人生を左右するような旅だったんですね。

 

橋本:他に、その旅で思ったこと―。その頃には私はビジネスマンになった自分や、オフィスに通う自分というものに違和感があったんですね。― その旅では…朝 目を覚まして歩き出す、暑い中をずーーっと真っすぐ歩くんです、ひたすら田舎の一本道を。向こうの果ては陽炎がフワーっと揺れていて、暑い中をトボトボトボトボ歩くんですね、で、陽炎があったところまで来たらまだ先は果てしなくって、その先にはまた陽炎がある。(何しとんやろ、わしはバカやろか?)と思う。どこかで誰かに本当に「あんたアホやな」言われて、腹立てて奮起したりしては、また歩く。ほんまにただ歩くだけなんですわ。で、昼になると腹が減って、その辺のメシ屋でめし食って、少し昼寝してね。ほんで目が覚めたらまたずーっと歩くんやね。6時くらいになったら、寝る場所を探さなあかん。風呂屋があれば風呂に入って、地元の人と友達になって。で、野宿して寝て。明け方も5時くらいになると、太陽がパアーッと上がってくるわけです。目に光が入ってきて、太陽と共に目が覚める。それでまたそこから、真夏の太陽の下をずーーっと黙々と歩いていく。(何でわしはこんなことしとんやろ)と思いながらも目標を目指して。その繰り返しです、ひたすら。…で、これが、どうも・どうにも、心地良いんですねえ。非常にしんどいんですけど、何か…これが私にとって心地良い。(これ身体に合ってるな)と思ったんです。もともと運動やってるんで、それもあるかもしれんけれど。自分にとって、この旅の経験が強烈やったんで、旅が終わったあとも、残像みたいなのがあって、(こういう生活を自分はしたいな)と。でもただ歩くだけでは食っていかれんわけで。(どうしたもんやろ)と思って行き着いたんが“農業”であって。そういう部分で、つながっているところはありますね。

 

【インドにて】

菊地:なるほど。以上が、農業をすることになった理由のひとつめですね。ふたつめはどうでしょう?

 

橋本:私は大学時代にインド思想史を専攻していたんですが、それは空手をやっていく過程の中で、選択したわけなんです。卒論のテーマは、マハトマ・ガンジーの非暴力運動。どうしてかと言うと、私は子供の頃からケンカが好きで、“格闘”とか“殴る”とかもともと好きだったんです(笑)。空手の試合といえば、ある程度は寸止めが必要ですけど、殴り合いですから、学生ならば感情がもつれ合うし、練習では自由組手といって普通に殴り合うわけですし…。そういうのが好きでやってはいたんですけど、でもやっていたら、段々疑問を持ちますわね。(…何でわし、殴り合いせなあかんねん?)と。特に“試合前”というのは怖いんですよ。殴られるかもしれんわけですから。自分は相手の歯を折ったりしてたから、いつか自分も折られるかもわからんわけですよ。そういう恐怖心もあるわけで、でもそのためにスリルがあっておもしろいわけやけどね…。その一方で(なんでわし軍鶏みたいな真似するのに人生賭けてるねん?)という思いもありました。そんな折に学校の授業で“非暴力”というのがあって(そんなもの甘っちょろいわ、信じられんわ)という考えがあったわけですよ。だから卒論のテーマにしよう、と思ったんです。で、たまたまうちの親父がとぼけていてね、誤って入学金を2倍払ってしまっていたんです。そのお金を、学校が私に返してきたわけですよ。…じゃあその金、使い込んでしまおう、と(笑)。そのお金にアルバイトで稼いだ貯金を足して インドに行ってやろう、と。
そうしてインドに行って、インド内の非暴力の運動家みたいな人たちに会うんですけど、そこで“東洋的な考え方”みたいなものに触れ、影響を受けるわけですね。そうしたこともまた、有機農業的な考え方につながってくるわけなんです…。

 

菊地:この旅も、橋本さんにとって運命的なものになるんですね。

 

橋本:ええ。日本でもニュースで報道されたことがあるらしいんですが、ガンジーの非暴力運動に関わった人で、スンダルラール・バフグナーというおじいさんがヒマラヤにいるんです。この人は“非暴力によって森を守る運動”をしているんですね。
…ヒマラヤに住む人たちは、森の資源で生活しています。でも森は政府の所有なので、木を伐採にやって来るわけです。木が伐採されると、保水量が減りますから、雨が降れば水が貯えられず、そのまま流れてしまう。すると、水の流れる先にあるバングラディッシュでは、いつも洪水が発生する。これは天災ではなく人災なんだ、これは木を切るから起きるんだ、切ったらいかん、と村の人を諭して運動が始まったんですね。政府や伐採業者が、チェーンソーや斧なんかを持ってやって来ると、人が木に抱きついて木を守ろうとするわけですわ。「木を切るんやったらわしを切れ」とか言うて。身を呈して森を守る運動をしてるわけです。政府も色々妨害をしたりするんやけど、命をかけて森を守っとるんです この人。

 

橋本さんに影響を与えたスンダルラール・バフグナー氏

バフグナーさんとの出会いは偶然なんですが―。私がインドに行って、卒論の資料集めのために、ガンジーの本ばかりを置いてある書店に行ったんです。で、本屋の店員と友達になって話をしていたら「今日ここにおもしろいおじいさんが来るから、あんた待っとき」と言われたんですね。するとやって来たのが、ヒゲが30センチくらいあって、インドの服着て、目がやたらと輝いてるおじいさんでして、この人がスンダルラール・バフグナーさんだった。話をしてみたら「自分は森を守る活動をしています。あんた、興味あるんやったらうちに来んか」と言われてね。「行きます。なんかおもしろそうです」と。とりあえず住所を控えておいて、そのインド滞在中に立ち寄ることにしたんです。でもいざ行こうとしたらこれがド田舎でね。どないして行ったらいいんかわからへん。とりあえずその近辺まで行こうと電車に乗って、バスを乗り継いで奥地へ奥地へと入っていくわけですが、段々と英語が通じんようになってくるんですね、字もさっぱり読めんし。で、その町の名前は“シリアラ”というらしいので、バスに乗る際、運転手に「シリアラ?シリアラ?」と聞いたら「シリアラ!シリアラ!」って答えよるからね、それ信じてバスに乗りこんでね。すると、バスがどんどんどんどんヒマラヤのほうに行くんですねえ。ガードレールもなくって砂利道で、乗り切れんインド人がバスの天井にまで乗っててね、ボロいバスは黒煙吐きまくって、急斜面の坂を登るわけです、下見たら谷底ですわ、オイオイこれ危ないんちゃうんか!いう様相でね、大丈夫かいな、どこ行くねんこれ、いう感じで。で、夕方にバスがようやく、とある村に着いた。(お、ここか!)と思って運転手に「シリアラ?」と聞いたら「NO!NO!」言うから(ええ!ここちゃうんか!変なとこ来てもうたんか)。で、村の人に聞いたら「シリアラはここちゃう。シリアラはもう1日かかる」言うから、「ええっ!どないすんねんっ!こんなとこでどこに泊まるねん!」。そこでふとバスの中を見たら、身なりの綺麗な紳士っぽい人がおるわけですよ。(あ、こいつは英語しゃべれるわ)と思って、「すいませんけど、今日はどちらへお泊りになるんですか?」と訊いたら、「この村にはホテルがあるのだ。君も一緒に泊まるかい?」と言うから「はい~っ!行きます~ぅ」と返事してついてって、そのおっちゃんと友達になって相部屋になったわけです。おっちゃんはウイスキーかなんかひっかけながら「お前、インドでこんな真似したらいかんぞ。朝起きたら荷物全部なくなっとるぞ。わしはたまたま良い人だったから良かったものの」。そんなことがあって、夜が明けてまたバスに乗ってひたすら走って、ようやくシリアラに着いたんです。で、村で「バフグナーのおじいさんはどこにいるんですか」と聞いたら「ここから歩いて山を越えないかん」と言われて、「えーーーー!」いうかんじですわ。そうして歩いて、やっと到達してね。
…そこで一週間くらいを過ごしました。彼の活動・森を守る運動とか、非暴力運動とか、瞑想したりとか、あと自然農法とかですね、見聞きしたり体験したわけです。
で、そこを発つ最後の日に、彼が私に言ったことは「あなたはここへ“オブザーバー(傍観者)”として、“見る人”として、外からやって来た。関わる人としてではなく。あなたはここで私と一週間を過ごしたけれど、これからもあなたはこのまま“見る人”として人生を終えるのか?」と、目をジーーっと見つめて言うんです。そうすると、こっちは目をそらしますよね。自分は卒論の勉強でやって来ただけで、非暴力運動やら危険なことやらに関わる気はないわけです。
それから日本に帰って、神戸で就職するわけですけど、あの“目”の残像が私の中にずっと残っているんです。何かにつけて、あれがよみがえってくるわけですね。
このことが、最終的には農業をせざるを得ないような、そんな気持ちを私に起こさせるわけですね。

 

【福岡正信さん】

菊地:お聞きしていると、たまたま立ち寄った本屋での出会いが、何だか用意されていたような出来事のようですね。

 

橋本:それと、もうひとり、有機農業にかかわっていくきっかけとなった人がいるんです―。
バフグナーさんのところに滞在していた時に 自然農法の本と出会ったんですが、その本の著者でもある 福岡正信さんです。
福岡さんというのは“無の哲学”に基づいた自然農法をやっている人です。どんなものかというと―。
人間があれやこれやと余計に考えるから悪循環を招き、その悪循環がどんどん繰り返されることになる。例えば、近代農法というものは、有機物を利用するよりも、植物がどんどん成長する化学肥料を使用する。ところが 化学肥料を使うことで、有機物を分解してしまうため、微生物が少なくなる。これが病気の原因になる。だから農薬が開発される。農薬を使用する。益虫がどんどん死ぬ。害虫が農薬に耐性を持ってくる。耐性を持った害虫を退治するためにさらに強い農薬ができる―。 と、悪循環になりますね。
もともと人間というのは 昔から食べ物を自分達でつくってきたわけですし、細かいことまで考えなくても、自然の法則を理解することができれば、あるがままに行うことで、食糧の生産ができるはず、いうのが彼の考えで、自然農法はその考えに基づいたものです。

 

橋本さんに影響を与えた福岡正信氏

彼の自然農法がどんなものかというと―。例えば、稲であれば、普通は苗を植えますよね。彼はもみをそのまま蒔くんです。で、もみと一緒にクローバーを蒔くんです。クローバーが育つ。水をやるとクローバーともみが発芽する。クローバーに抑えられて、雑草が成育しにくくなるんですね。稲がなる時には、麦とクローバーを蒔く。稲刈りをする際に、人間が踏みつけたら、発芽率が良くなって麦とクローバーが発芽する。それを春に刈る…。
そういう彼独特のやり方でも、けっこうな収量があって、農学者がびっくりするほどなんです。彼がすることといえば、ただタネを蒔いとるだけなんですね。そんな方法で、実際に収量をあげているじいさんがおったわけですよ。それが福岡正信という、おもしろい人物なんですね。
彼は“日本の有機農業の祖”といえるような人なわけですけれども、自然の法則に従った食糧の生産をすれば、人間はそんな大変な思いをせんでも、安全でいいものがつくれる、という考え方です。海外でも有機農業の世界では有名で、彼の著書は多くの国で翻訳されています。私は東洋思想を学んでいたから、彼に対してかなり関心を持っていて、彼の本を読むだけではおもろないし(よし会いにいこう)とか思って、連絡したわけです。電話番号を調べまくった挙句に見つけて電話したら、「本を読んでもらったらわかるし、いちいち来てもらったらかなわん。来るな」とか言うわけですよ。それでも(どんな人やろな、見てみたいな)と思って連絡するんですけど、やっぱり断られる。…でもねぇ 私はそんなん、しつこいタイプやからねぇ、あきらめるわけ、ないわ。

 

菊地:(笑)

 

橋本:(よし、そんなんやったらもう勝手に行って、その自然農園 見たる)と思って、(まさか会いに来られてまで、断らへんやろ…よっしゃ、もう強引に行ったれ)と行ったんですね。行ってみたら彼は不在だったんですが、その農園を見てみたら、山の中にみかんの木がいっぱい植えてあって、その木の間にナスやら大根やらが植えてあるんですね。みかんの木の隙間から、大根がニョキニョキ出てるわけです。それから、クローバーやら色んな種類のものが混ぜクチャに植わってる…おもしろいんです。傍にアメリカ人を見かけたので「君は何をしているんだい?」と話しかけたら「福岡先生の本を読んで感動して、日本に来て、ここで研修しているのだ」と言うわけですよ。(ほほー!世界から人をよぶような人やな、これはすごい人に違いない)次回は家にいる時に来てやろう、と思って帰りました。そして再度訪れた。その日は雨が降っていたんで(よし、雨が降ったらあのじいさんも“雨の中 この青年はわざわざ来てくれた、よし入れてやろう”と思うんちゃうか、そういや敷地に寮みたいな建物があったな、今日はあそこに泊まってやれ)とか思ってね、また勝手に家まで行ったわけです。「突然来ましたが、先生のお話を聞きたくて」すると、その時には福岡先生がおったわけです。先生「あんたは何者じゃ?」と言うから、「いやあ、私はちょっと自然農法に関心があって、お話をさせてもらいたくて来ました」「ほうほう、じゃあ来てみい」といったことになり、そこで 自分がそれまでに考えていた環境問題の話とか、このまま行ったら人類は危うい、とかいう話をして、「…だから、僕は何か考えなければいけないと思ってるんです」とまあ、理想論をいろいろ言ったんです。福岡さんは正座してうんうん聞いていて、そして最後にひと言こう言ったんですね「あんたは“知ってること”と“わかってること”が、わかっていない」と。「出直して来なさい!!」(おお~っ!な、何や~!)と、こうなったわけですわ。出直して来い、と言われて睨みつけられたら、もう帰るしかないわね。「すんません、また来ますぅ」と言って帰ってきた。(…大雨降ってるのに、帰れっちゅうんか…)外はドシャ降り、何や知らんけど怒られて、意味ようわからへんし、傘さしながら涙が出てきてねえ、(何でわし怒られたんやろな)と帰ってきた。
その後 意味がわかってくるわけです、“知ること”と“わかること”についてが。知るというのは知識のことで、わかることは体験をして自分の中で実感したことです。人間というのは、“知っている”だけのくせに、わかったような顔をしているんですね。自分は考えることだけで、頭でっかちになってしまっていて、あんた実際に何をやってるの、と言われたんですね。
そのあたりのバフグナーさんと福岡さんとの出会いが、有機農業への選択に関係してくるわけですね。

 

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橋本慎司さん

 

 

 

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