


「手を、つなげ」(第二回)橋本慎司
思索と行動の果てに、有機農業の選択を決意した橋本さん。ひとりの農家として仕事に取り組むかたわら、活動の舞台は農業の現場以外にも広がっていきます。特別版でお送りしている連載第二回目。それではどうぞ。
【就農「ユウキノウコウ」】
菊地:橋本さんが学生だった当時は、新規就農について、相当な思い切りが必要ですよね。農業への理解も、今ほど進んでいないでしょうし。
橋本:まあ、とりあえずサラリーマンやろう。それでも農業やりたかったらやったらええわ、と。自分にとって農業というのは、非現実的なことであって、現実的に考えたらサラリーマンやっているほうが安定してるし、そんなじいさんたちの話に惑わされて、自分がえらい世界に入ってえらい目に会うのはまっぴらごめん、という気もあってサラリーマンをしてたんですけど。でも、サラリーマンをしていても、どうしても自分の想いが捨て切れなかったんですね。であれば、もう思い切ってやるしかない、と思ったんです。
菊地:そうして、市島に来られた、と。
橋本:ええ。生協の活動を通じて、神戸で有機農産物を支えている消費者団体に出会ったり、消費者団体と市島の生産者を繋げる役割を果たしている、神戸大学の保田先生と出会ったり、市島で農業をやっている青年と出会ったりしていたわけですけど…。
中でもインパクトがあったのは、尼崎で当時に市会議員をやっていた北川れん子さんという人がいて、その人が有機農業を広めるため、町中で有機農産物を積んだリアカーを引いていた。その時コープの職員だった私は(俺は農業したいと思ってるけど、できへんと思ってあきらめとる。彼女はリアカーひっぱとる。これは負けとるな)と。(もう、仕事やめて農業しよう)と思いました。そこで保田先生に相談したら、その頃に兵庫県で初めて出来た“新規就農事業”を紹介されました。そこへ相談に行ったところ「どこへ行きたい?」と尋ねられたから「市島に行きたい。市島は有機の町だし、知っている人もいるから」。すると市島の役所の産業課を紹介してくれました。
かつて大学時代に、親に農業のことを話してみたら「ハ、ハア?」いう顔で私のことを見るし、有機農業というものが何なのかわかってないし、そもそも“新規就農”いうものがないんですよ。“農業というのは農家がやるもんや”と。農業というものは、農家の後継ぎがやるのが当り前ですから。農家でない人が農家をやるなんて話、当時は考えられないことでした。東京や大阪ならば まだあり得たんかもしれんけど、広島なんかでは完全に狂人扱いやね。親戚からも「あいつ、気が狂ったんちゃうか」。さすがにそこまで言われたら、こっちも(わしの考え、間違ってるんちゃうやろか…)と思い始めますよね。有機農業という言葉も無くってね。こっちが何度も「ユウキノウギョウ!」と言ってるのに、みんな「ユウキノーコー?」と言って間違えよるしね。親父なんかの怒りようといったら、もうなかったですよ。そんなことがあったから、親に相談することもしませんでした。生協の上司に退職届を出してね。農学部出身のそのひとは、私がやめないように一生懸命説得してくれるんやけど、最後には「おもしろいなあ」と言ってくれました。
そうして市島の産業課にアプローチをしてみたら―。そこの課長にすれば“農業をするために移って来る”なんて論外やし、当時 市島では始まってはいましたけれど、有機農業は偏屈なやつらがやっとる、いう感じでして。わざわざ都会から若いもんが、そんなもんのために何で来るねん?みたいな。農村では、よそから来る人に対して保守的やから「あんたがやりたくても住む家がないで。誰もヨソ者に家なんか貸さんで」と。「でも私はあきらめ切れへんのですよ。どうしてもやりたいんです。もし家借りられなかったらテント持ってきますわ」と。するとその産業課長が私のことを気に入ってくれて、その課長の知り合いのおばあちゃんが空家を持ってて、説得して借りてくれた。
菊地:なんとかスタートされたものの、最初から有機農業が軌道にのったわけでもないでしょう?
橋本:いきなり始めて、すぐに食べていけるわけもない。市島には “市島町有機農業研究会”というのがあって、当時そこのリーダーで一色作郎さんという人がいました。その人は有機農業や環境問題に取り組んでいたんですが、話をしたら「よし、うちの会員に入れたる」と協力してくれました。それに、先の産業課長さんが「あんた英語できるんやったら塾で働いたらええ」と塾を紹介してくれて、まあ 塾嫌いのこんな私ですけど、食っていくためには何でもせなあかんな、と(笑)。そこの塾長というのがおもろいじいさんで、元軍人の人なんやけど、こっちが想いを色々と打ち明けたら、私のことを気に入ってくれて、「よっしゃ、お前は明日からうちへ来い、雇うたる!」。そうして、昼は農業・夜は塾、そんな生活が始まったわけです。
【農業を始めた頃のはなし】
菊地:農業に取り組みはじめた頃は、どんなでした?
橋本:軌道に乗り始めたのは、結婚した時くらいからでしょうか ―。始めた頃は、いい農地を貸してもらえなくて、痩せたような土地でやっていました。雨が降ったら水はけは悪いし、設備が揃っているわけでもないし。“できるだけエネルギーは使わないほうがいい”というのが理想でしたから、草刈なんかは鎌を使って、手作業でやっていました。それを見かねた近所の農家が、草刈機で刈ってくれたりね。“自給自足”みたいなところを目指していたんですが、最初は1反のお米と1反の畑があって、その中で食べることをやりくりして、余ったものは売る、いうことをやってました。作り始めた当初は、小松菜なんかはぼろぼろで、「橋本さんとこの小松菜はカーテンのレースみたいや」。葉っぱがなくて葉脈だけ、いうことなんですけどね。白菜なんかは植えても植えても虫で全滅するしね。農業の収入はわずかなもので、昼は汗だくになって働くんですけど、いいものができへんでね。夜に塾で働いて、収入をカバーしてなんとか出入りを合わせる。消費者団体が“有機農家を支えよう”と支援してくれたんですが、その団体が無かったらどうしようもなかったですね。ぼろぼろの野菜でも買ってくれますから。“若い人間が田舎に来た”ということで、消費者団体の人が援農に来てくれて、草をむしってくれたりね、そんなふうに支えてもらって、どうにかこうにかやってきたわけです。
3年目くらいに平飼い卵の仕事の話があって、市島の若い者で取り組もうということになったんです。こっちは仕事を選んでいられないということもあるし、農業するには肥料を買わないといけないけれど、鶏を飼い始めたら自然と肥料ができるわけなので、循環型の農業もできる。それに、調べたら畜産は収入が安定するという利点もあるので、手を挙げました。鶏舎をつくるお金はなかったけれど、消費者団体がお金を集めて貸してくれて、そのお金を資金にして鶏舎を建てたんです。節約のためにある程度は自作してね、当時は電動工具もなかったんで大工仕事は大変でしたけれど。始めてみたら、毎月どのくらい卵が採れるか決まってくるために収入が安定し始めたし、有機物も安定的に出来はじめた。おかげでようやく生活ができるようになって、塾に行かなくてもいいようになった。そのうち、野菜もちょこちょこできるようになってきた。
それまでは“昼間は農業・夜は塾”寝る間もなく働いていたんですけど、“自分の理想”というものがあったから、何とも思わないでやっていたんですけれどね。でもある時、肩が動かんようになって、体も動かんようになった。病院行っても原因不明やし、多分 何年か分の疲れがたまっとったんですね。朝から晩まで働き詰めで、頭はボーっとしてたし、ただ理想があるから精神力でなんとかやれていたわけで。でも、それがなんかのきっかけでガタッと崩れて、とにかく力が入らへんのですよ。作業ができないようになって、(これから農業続けていけるんやろか…)不安になっていた頃、家内と知り合ったんです。どうせ作業はできんから、楽しく遊んで過ごそう、と思ってね、暫くそうやって過ごしながら、家内に少しづつ仕事を手伝ったりしてもらってるうちに体力が回復して、復帰できるようになったんです。
菊地:今の整備された橋本有機農園を拝見すると、想像がつかないようなお話ですね。
【国際会議にて】
菊地:橋本さんは一農家としての仕事以外に、業界のためのご活動にも取り組んでおられますが、そのあたりのことをお聞かせ下さい。
橋本:野菜も鶏も軌道に乗ってきて、生活も少しゆとりが出来てきて(これで未来へ向けてやっていけるかな)とふたりが思い始めた頃―。消費者団体から「インドで“国際有機農業運動連盟”という国際機関の大会がある。日本から代表団を送らなければいけないが、英語に堪能な人間がいない。あなたは語学ができるので行ってみないか」という話があったんです。以前、私は韓国の大会に出席したことがあったんで、どんな集まりかは大体わかってましたし、インドだし行きたいな、と。すると消費者団体が「あなたに行く気があるんだったら、呼びかけて資金を集めてあげる」となった。それで消費者と生産者の交流会の時に、兵庫県有機農業研究会の赤城さんが「みんな、橋本クンをインドに送りましょう(ワーっ!)」みたいにね、カンパを集めてくれて。すると瞬く間に旅費の半分くらいは集まって、そうして久々のインドに行ったんです。
このインドの大会には、他の日本国内の有機農業の団体「大地を守る会」「ポランの広場」「日本有機農業研究会」「自然農法開発センター」…当時の各団体のリーダー達が、こぞってやって来ていました。何故かというと―。当時はどこの団体も有機農産物を“産直型”というやり方で流通させていて、スーパーとか一般の店舗には、出回ることがなかったんですね。当時は認証なんてなくて、ただ単に“有機”ということで生産者と消費者を勝手に行き来させていただけ、だったんです。詳しい検査やシールを貼ったりする必要がなかった。お互いの顔が見えてるわけやからね。そんな折に政府のほうで“ヨーロッパでやっているように認証制度をつくります”との話が進みつつあった。だから、各団体はヨーロッパが行っている認証システムについて、きちんと調べて取り組む必要があったわけなんです。どの団体もこの大会の場を機会にして、それらについて勉強しよう、ということでした。
その大会期間中に、“有機農業の生産者が集まってお互いの国の情報交換をしよう”という“農民会議”があってね、そこに出席したときのことなんですが…その会を仕切っているのがインドの学者なんですね。インドでは農民がバカにされているわけです。で、その学者たちが“農民にはものを言わせん、お前ら ああせいこうせい”みたいに、命令のようなことを言うわけです。とにかくいやな雰囲気で、こっちはだんだんと腹が立ってきたんですね。その会議の最後の総会の時に、手を挙げて言ったんです。「こんなことはおかしい。研究者が何故そんなことを言えるのか。百姓をして有機農産物をつくっているのは、現場の生産者である。生産者をなめたらいかんぞ」。そんなこともあって、私は目立っていたんですね。そういう事情のせいか、以下のようなことになるわけですが―。
大会期間中に、連盟から日本に対して「アジアのネットワークづくりのために日本から代表を出せ」と言われたんです。「日本は先進国で金を持ってるのに役員を出さない。ずるい。出せ」と。そこで、日本の団体の各代表者が集まって討議してる。するといつの間にか「日本の有機農業を何とかせないかんな」と、みんなが結束して、そういう方向の話になってるわけです。「もっと“日本”いう単位で考えんかったら、いつまでたってもまとまらんで」と。そんな中、連盟から「日本の代表を出せ」と言われて、もうこれは絶対出さなあかん、ということになったんですよ。そこで、その選考の会議が始まったんですけど、わたしは兵庫県の一農家やから末席に座って(わしには関係ない話や)と眺めておったわけですね。「…理事は英語ができて」「みんなの前でちゃんとモノ言えるやつやな」…「おい、お前やな!」「ぼ、ボクっすか?!」「そうや、お前やれ」と言うことになって、“大地を守る会”の藤田さんも「あなたをバックアップします」“らでぃっしゅぼーや”も「全面的に協力します」各団体がこぞって言うわけですね。旅費やらはもちろん、色々とサポートします、いうことになって。で、ここで引いたら男じゃないわ、と思って「よし、受けましょう!」と。そんなことで理事に選出されたわけなんです。その後は選挙があって、アジアの代表理事にも選ばれたりしまして、いろいろと海外に行ったりすることになったんですが、ようやく8年の任期を終えまして、現在に至るわけです。
【有機農業発展のための活動について】
菊地:ご活動では、どんなことがありましたか?
橋本:たくさんの人との出会いがあったのは良かったですね。「同じ想いでやってる人が世界中にいる・頑張っている仲間がいる」と思えることは、農業をやる上で今でも励みになっています。そんな付き合いが広がったから、海外から依頼されて、若い人たちをうちの農場でしばらく預かることもあります。今、私が参加している活動のひとつに、“CSA(コミュニティ・サポーティッド・アグリカルチャー)”のネットワークがあります。今の市島のやり方 ― 生産者から消費者に直接 流通させるやり方ですね、お互い顔が見える方法 ―もともとこれはヨーロッパやアメリカにはなかったんです。
昨今の有機農産物は商品化して、どんどん大規模化していって、ビジネス化していくんですけど、もともと社会運動としてやってきた家族経営型の有機農場が、どんどん没落しているんです。“企業型の大規模な有機農場”というものが打ち勝ってきて、もともと社会運動とは関係のない連中が、大量の有機農産物をどんどん作ってスーパーに卸す、みたいなのが主流になってくるわけですね。それに対抗する方法として彼らが考えたのが、“日本の消費者運動”これに着目したわけです。そうして彼らが作ったのがCSA。どんなものかというと―。
地域の都市住民に対し“この地域の農業を守っていくため、この地域の農場で有機農産物を作っていくから支えてほしい”というかたちで呼びかけるわけです。そうして生産者と消費者の関係を結んで、農産物を全量取引してもらう代わりに、会費制で農場の運営を支援する、みたいなシステムをつくってるんですね。それが“CSA農場”というやつなんですけど、これが日本の生産者と消費者の提携運動をモデルにして、アメリカで広がり、フランスそしてヨーロッパと、広まっていったんですね。こういうことをしている人たちが、横のつながりを作り始めている。私はその運営委員をやっています。
これまで私は(有機農業を広げよう)という考えを持っていたんですけれど、有機農業が広がって、これが貿易の対象になって、その結果エネルギーをたくさん使って、世界中に有機農産物が飛び交うことになったとしたら…これは、もともとの原則から外れることになってしまうわけです。本来あるべき姿といえば、地場でできたものが地場の消費者に、できるだけ短い距離の内で消費されていく、と。そして、消費された残渣なんかがまた農場に戻って、と…エネルギーも循環するというのが、多分 理想的な在り方なんじゃないかな、と思います。CSAとは、そういう農業をあちこちで広めましょう、というネットワークなんですね。SKYPEを使用して、毎月 会議を行っています。
その延長として、ファーマーズマーケットに対して感じるところがありますね。兵庫県の有機農家を集めて、兵庫県の消費者とつながりをつくりながら、顔の見える関係の中でやっていきたいなあ、というのが私の想いです。そういう想いを持った人たちは、たくさんいます。フランスで会議があった時、別れ際にアメリカ人の農家と抱き合って泣いてましたよ私。「がんばろうぜぃ!」みたいな(笑)。地域・ローカルを守らないといけないんだ、みたいにね。ああいうふうに感情的になれたことも、今の支えになっていますね。
【第三の道】
菊地:有機農業の、理想的な広がり方、というものについて、更にお願いできますか?
橋本:私が有機農業をやっているのは“消費者に安全なものを提供したい”というものはもちろんあるんですが…。そもそも有機農業というのは、つくる生産者と食べる消費者が協力して、初めて叶うものなんですね。なぜ世界的に有機農業の動きが活発になっているかというと―。
今までの考え方では、人間が食糧をつくるためには山や川を潰してでも農地を広げて、不自然なやり方であっても食糧をどんどん増産して、そうでないと人間も飢えていくから、多少自然を壊したって仕方ない、と。もし自然を守りたいんであれば、もっと質素な、昔のような貧しい生活して我慢せないかん、というような二者択一的な考えがあったわけです。でも現在の有機農業の生産者が目指すところは、そういうことではなく、第三の道ですね。つまり、人間が生きていく上で、必要な食糧を生産する農地に、色んな生命も生きていける。つまり自然と共存できる食糧生産のあり方、というのを目指していく、と。これは生産者だけがやろうとしても、できないことなんで。色んな人の協力があって、初めてなり得る話なんですね。地域の有機農産物を食べる…ということは、有機の農場が増える…ということは、そこに農薬が化学肥料が使用されない土壌が増える…ということは、そこに蛙やメダカを始めとする多様な生物が生きる環境が増える…そんな土地がどんどん広がって、村だけでなく川にも広がり、ウナギやらフナやらカニやら、昔いた生き物が還ってくる―。実際にヨーロッパでは、有機農業が広がったところで生態系が元のように戻り、豊かになったということが立証されています。だから消費者は“ただ単に安全なものが欲しいから買って食べる”というだけじゃなくて、日本の農村とか、日本の自然を守る、という気持ちを持って、有機農家を支えてほしいと思います。























